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1Q84 BOOK3 村上春樹

1Q84 BOOK 3
村上春樹 新潮社

初版 2010年4月
予約だけで70万部を超えた異例の文学作品。
発売日(深夜0時に発売開始した店あり)は長蛇の列ができた。滅多にない超話題作。

あまりに人気があり、多くの人が多くのことをこの作品について語っている。もう発売日を2年近く過ぎてから感想をアップしてみたところで、どうなるものでもない。そうわかっていても、この本について書きたいという気持ちが雨後のたけのこのように私の心や脳みそのあちこちから湧き出てきてくるように気持ちがはやる。
「1Q84」のBOOK1、BOOK2は2009年5月30日に発売されている。当時、すごい話題になっていたものの、すぐに読もうという気持ちはなかった。けれど、年末に友人が二冊揃えて貸してくれた。
村上春樹作品は2008年11月に「ねじまき鳥クロニクル 第三部鳥刺し男編」を読んでから手をつけたことがなかった。あまり騒がれていると、ただ流行に乗っているもしくは、踊らされているだけにすぎないように思えて、読む意欲がわかなかった。
ハードカバーは値が張るし、図書館で予約したところで、いつになったら、借りられるかわからない。
だから文庫になるまで待とうか、もし、うまく中古本が安く出ていたら買おうかと悠長に構えていた。
それが、近所の友人が嬉々として貸してくれたので、読まなきゃ損! となんでも損得で考える関西人特有の気性が、本を鷲掴みにさせ猛烈な勢いで読み進んだ。
小学生のころからの友人で横浜に在住の本好きな女性と去年、ランチしたとき、
「読書って、ある種、トリップだと思う」
と彼女は目を宙にさまよわせながら、話していた。
現実を忘れさせ物語の世界に没頭させてくれる。
読んでいる最中は、他のことは頭の中からきれいさっぱり消え去ってしまう。
それだけストーリーの虜になれるような本は、残念ながら数少ない。
読み終わるのが勿体なくって、もっとそのフィクションの世界に浸っていたくなる。
そんな読み物は多くない。
「1Q84」のBOOK1、BOOK2は文句なしに没頭できる書籍だった。
だから、BOOK3が出た時は、一日も早く読みたかった。なのにまた、友人が貸してくれるだろうと待っていた。そんなに読みたいのに待つなんて、矛盾している。矛盾しているけれど、読書会をやっているから、読まなくてはならない本は毎月あるし、とりあえず活字さえ読んでいたら、読書への渇望はどうにか抑えられる。
そして私は2010年1月初めにBOOK1、BOOK2を読み終わってから、2011年4月「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は読み春樹を味わいはしたが、「1Q84 BOOK3」には手をつけていなかった。
友だちが貸してくれるのを待つのも(催促さえしていなかった)、文庫になるのを待つのにも痺れが切れてきた。2012年が明け、入院することに決まっていたので、この期間に読もう! とようやく自ら行動する(この場合『行動』とは購入の意)ことに決めた。
うまい具合に古本市場から500円の割引券が届いていた。古本市場に行ってみると、なんと800円で「1Q84 BOOK3」が販売されていた。ってことでたったの300円でゲット!
正規の方法で買わないのは、作者に対して申し訳ない気持ちはあるのだけれど、もっけの幸い。
ツイッターで入院中、「1Q84」のグッときた喩を何度も書いた。
村上春樹の作品は、その物語、登場人物が独特で魅力的。けれど、その魅力の大きなところは喩にある。村上春樹ならではの喩。まさに真骨頂! と膝をたたきたくなる。真似してみたいけれど、決してあんな喩は思いつかないだろうなという喩。想像の扉を解き放ち、村上ワールドにすっぽりつつまれ、それこそ現実からトリップさせてくれる切符が春樹の喩だ。
見たことが無いもの、知らないものを描写するとき、ただ克明にその特徴を説明するのではなく、作者独特の比喩を使うことによって、より深くよりリアルに感じさせてくれる比喩。
「1Q84」は月が重要なファクターになっている。その月を喩えるのも様々だ。それは、月なのに誰も目にしたことがない月だから。
約2年前にBOOK2とBOOK3を読んだので、物語の大筋しか覚えていなかった。だから、読み進むうちに「ああ、そうか、そうだった」とおぼろげな記憶をかき集め、BOOK3にいたるまでのストーリーを頭の中で組み立てていった。
「1Q84」には「ねじまき鳥クロニクル」にも登場した牛河という男が出てくる。見た目が悪く、小柄で禿げていて、誰にも好感を持たれないであろう男。本人もそのことを重々認識している。
春樹はどうして「ねじまき鳥…」の登場人物をふたたび使ったのだろう? アクがあり、ヒルのように執念深くしがみついてくるような男。嫌悪感を誘うような男なのに、春樹は書き進むうちに牛河に愛着を感じているんではないだろうかと思った。
読めば読むほどに牛河に感情移入していった。
私にとっては主人公である川奈天吾、青豆雅美よりもBOOK3では、牛河への注目度が高かった。特に天吾はBOOK3では、どこか受け身なばかりに思えて面白味に欠けていた。
青豆も行動が非常に制限されているので、やはり脇役かもしれないが、タマルの方が魅力的だった。
ただし、タマルはちょっと鼻につく。様々な危ない目に合い、それを切り抜けてきただろう経験豊富な男性で、しかも知的で礼儀正しく、物事を的確に運ぶことにかけては、右に出る者はいないという自信に満ちている。居丈高な態度で青豆に接するわけではないけれど、少々、押しつけがましく感じられた。
だけど、次回作以降で春樹はまたタマルを登場させるかもと思わなくもない。
タマルは過酷な生い立ちやゲイとしての生き様など興味を掻き立てる経歴を持つ人物ではある。
物語の流れは到達すべき着地点へ向けて後半はいっきに進んでいく。
結末は見えているといえば見えていた。おそらくこうなるであろうというのは予想がつく。
けれど、最後まで「でも、本当は違うのかもしれない」「1Q84」の世界は以前として青豆と天吾を取り込んだままなのかもしれないという、足元をすくわれるかもしれない危うさを感じた。
村上春樹は23歳のとき友だちに勧められたのに、間違って村上龍のことだと思って、「限りなく透明に近いブルー (講談社文庫 む 3-1) 」を読んだ。それ以来、村上龍にはまった。初期作品は全て読んだ。村上龍は天才だと思っていた。
龍ちゃんの文章にはブレがない。
まさにカミソリのように鋭い言葉選びをしている。
20代の私は文章を書き散らしていたが、決して、満足のいくような文章が書けなかった。想いにピッタリする、情景をくっきりと描写できる文章が書けなかった。 今でも書けはしない。
語彙というものは、読んでわかる語彙と自由自在に書いたり話したりできる語彙に分かれる。英語を学んで特にそれがはっきりわかった。
どんな容姿をしているかとか、どんな町なのかとか描写するのに、ただ高い鼻、大きな目、太い眉とか、駅にバスターミナルがあり大きなショッピングモールが隣接しなどと書くぐらいでは、のっぺりとした想像しか読者の頭に浮かばない。
それを村上龍は形のない感情にも鋭利な刃で無数にあるような言葉の中から、全くブレのない言葉を無駄なく選んでいると、エクスタシーを感じるほどに私は驚喜して読んでいた。
村上龍に出会うまでもいわゆる名作と呼ばれる作品をそれなりに読んできたけれど、そういう感慨を持った作家は誰もいなかった。それはきちんとした文章を書こうと努めていた時期であったから余計に感動したのかもしれない。
それだけ村上龍に心酔していたけれど、友人の勧めていたのは「龍」ではなく「春樹」だった。
ためしに1987年2月(当時私は25歳)に「カンガルー日和 (講談社文庫) 」という短編を読んだ。今になってみるとまったく内容を想い出せない。けれど、ノートには「変わった雰囲気の短編集」とメモしてある。
夢中になるとか、没頭するとか、感激するとは違う感触だったように思う。
けれど、それをきっかけに「ぼくが電話をかけている場所」というレイモンド・カーヴァーの村上春樹訳を読んだ。これは、後、「ショート・カット」という群像劇映画になった。特に何が起こるという物語ではないけれど、心にしこりが残るような名状しがたい消化不良のモヤモヤを残した。
日出る国の工場 」という安西水丸と工場見学に出かけるレポートも読んだ。
とっぽい、飄々としたそれでいて物に対するこだわりがある村上春樹像が私の中にできあがってきた。
龍ちゃんのようにガツンと頭を殴られる衝撃はないにしても、じわじわと私に春樹ウィルスが増殖していくようだった。
10月になり「羊をめぐる冒険」上下巻を読んだ。ここに来て、春樹熱は高まった。
比喩がどうのこうのというよりも、その得体の知れない物語と世界観が夢中にさせてくれた。
そして、「ノルウェイの森 」。
最初にもふれた横浜在住の友人、当時はまだ大阪にいた彼女が「ノルウェイの森」を読んで分厚い手紙を送ってきた。彼女の手紙の具体的な内容は忘れてしまったが、ほとばしるような熱い感動が伝わってきたことを今でも覚えている。
それで11月、私も買って読んでみた。確かに面白かったし夢中で読んだけれど、「羊をめぐる冒険」ほどには私を虜にしてくれなかった。期待が高かったせいかもしれない。
平行して私は龍ちゃんの作品も読んでいた。
私は春樹に傾倒していたけれど、龍ちゃんの方がダントツに素晴らしいと思っていた。
バブルが始まる頃だった時代背景もあったのだろう。そういう時代にも龍ちゃんの作品はピッタリ合っていた。
ところが、龍ちゃん熱は「共生虫」を境に冷めてしまった。「共生虫」は素晴らしかった。けれど、その後に読んだ引きこもりやDVを扱った小説はいただけなかった。面白いし問題意識も高い。けれど、もう私の好きだった龍ちゃんじゃなくなっていた。
私の好きな村上龍はあくまでも天才で大衆にこびない作家。ほしいままに自在に言葉を操り切れ味鮮やかな文章を披露し人を食ったような面白さや悲哀を描く。
それがなんだか社会派みたいにな流行作家にすぎないような、文学を極める人でなくなったように思えた。
村上龍がホストを務めるテレビの「カンブリア宮殿」は好きな 番組だけれど、私は、作家としての興味が蒸発してしまった。
私が求める龍ちゃんの書く龍ちゃんにしか書けない作品を、もう書いてはくれないのだと独りよがりに思いこみ、読むのをやめてしまった。
けれど、春樹は違った。毎回、私に期待以上の(ちょっと手応えが薄いときもあるけれど)興奮と喜びを与えてくれた。
村上春樹は私が嫌いな幾人かの作家とは違い、読んでいて作者の傲慢さが見えない。
ある作家は「あんたたちにはこれぐらいで十分でしょう」と手加減を加えて書いているのではないだろうかと思える作品もある。その作家の作品は面白く読み始めたら止まらないほどなのだけれど、読んでいると常にバカにされている気分になってしまう。作家が本来はもっと素晴らしい文章が書けるのに手抜きしているように思えて仕方ないのである。
村上春樹作品はいつも謙虚さ奥ゆかしさがあるように思える。
そして年齢が増すごとに作品の質がどんどん高まっていると感じる。
手抜きではなく肩の力を抜いたような穏やかな文体。
私が20代の頃、「吉本ばななや村上春樹は文学ではない」とやかましくミドルエイジの人たちはこき下ろしていた。
今も「春樹はどうも……」という方も結構いる。
誰がなんと言おうが、(今後、春樹がどう変化いくかはわからないが)1987年から読み始め今に至るまで春樹作品に失望を感じたことはないし、賞賛してやまない作家だ。
「1Q84 BOOK3」のレビューにはなっていないが、村上春樹の魅力の一部(まだまだ書き切れていない)をこの時点で書き残した。(2012年1月15日読了)
下に紹介したものは、「1Q84」に登場した音楽と作品。


1Q84 BOOK 1 村上春樹 新潮社 
 

1Q84 BOOK 2 村上春樹 新潮社
 
1Q84

サハリン島 チェーホフ
 
その他村上春樹作品の感想 海辺のカフカ/東京奇譚集 参考:チェーホフ短編集の感想
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